资源描述
歴史Ⅰシケプリ(月3/井坂)
2008年度冬学期 文ⅠⅡ24組
<補足・注意事項>
*試験時間は90分。論述問題が5問ほどあります。
*持ち込み不可です。
*授業中に配られたプリントも一応ざっと見ておくことをオススメします。
*ネットで「井坂 インド」と検索をかければ、井坂教官の過去の授業のシケプリが2つぐら い出てきます。この歴史Ⅰの授業と範囲はちょっと違いますが、かぶってる部分は参考になるんじゃないかと思います。
序章 近現代インド史の導入
○インド独立後は、植民地時代からの「継続(遺産)」が多い
*「遺産」
⇒インド国民会議派(1885~)
印パ関係(1947~)
官僚組織、軍隊
法制度
中央一州
選挙、留保制
家族法(cf.統一民法なし)
文化面(cf.新聞の発達)
教育(cf.英語)
財閥(ターター財閥が有名)
都市(cf.地名変更)
第1章 インドの植民地化
○17世紀~
*イギリス東インド会社設立。商業活動が目的(1600)
→商館を確保して交易の拠点を確保
→商館の保護のために軍隊を設置
→軍隊が在地勢力の対立に巻き込まれる(=介入する)
→イギリス軍隊が勢力を拡大
○18世紀後半
*ムガル帝国衰退、在地勢力の対立が激化
*東インド会社が徴税権を獲得
→新たな地税制度、司法制度を導入
○19世紀後半…会社の支配からイギリス本国の支配へ
*インド大反乱(シパーヒーの乱)勃発(1857)
→東インド会社廃止、ムガル皇帝廃位(1858)
→ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位(1877)
第2章 植民地時代のインド
◆分割統治
○インド帝国の分割統治
*英領インド: イギリスによる直接統治
*藩王国: 間接統治。藩王が内政を担当(あくまで宗主権はイギリスにあり。財政・外交はイギリスが握っている)
○分割統治の目的
*宗教、カーストによる分類を強調
*マイノリティー保護を主張し、インド全体の団結を阻止
※イギリスの支配によって、インドのまとまりが強くなったという見方もある
(cf. ナショナリズム、出版文化、エリート教育、ネットワーク)
◆インド国民会議の誕生
○国民会議設立の背景
*現地におけるイギリスへの協力者の必要性
*「インド文明化の使命」という口実
○設立の過程
*イギリスは、英語によるエリート教育を実施(弁護士、官僚…)
→インド国民会議(INC)設立(1885)
→政党組織化(「会議派」)、「安全弁」の役割を果たす
○国民会議の役割の2分化
*運動組織: ガンディーを中心として独立運動を展開
*「政党」: インドへの権利の部分的移譲を主張
○会議派の独立運動
*会議派は「プールナ・スワラージ(完全な自治)」を発表(1929)
*1930年代、不服従運動が展開(cf.塩の行進)
→イギリスは権力の部分的移譲を進める
(州の自治権を全面的にインドに付与。ただし中央の権力はイギリスが保持したまま)
→イギリスは州の自治の為政者を決定するために、選挙制度・州議会を導入
◆近代のカースト制度
○カーストとは何か?
*ヴァルナ/ジャーティ
…あいまいで流動的な概念。二つの対応関係が常にあるわけではない
*不可触民
…カースト制度にも漏れた最下層の人々。指定カーストとも呼ばれる
*不可触民以外のカーストを特に指す場合はカースト・ヒンドゥーという
○ジャーティの特徴
*地域性: 地域によってジャーティの秩序はまちまち
*職業: 建前ではジャーティと職業がすべて対応しているように語られるが、完全に一致していないこともしばしばある
*内婚: カースト内部の男女同士で結婚するのが一般的
*序列: 流動的。当時の社会情勢などによって変化する
○反カースト運動
*アンベードカル(不可触民のコミュニティー、ヌハール出身)が不可触民の先駆的指導者としてヒンドゥーを批判
→分離選挙導入を支持、不可触民の権利を主張
(不可触民の地位向上を実現するには、イギリスによる保護が必要と考えた)
→分離選挙に反対するカースト・ヒンドゥーの指導者(ガンディーetc.)と対立
◆選挙制度
○分離選挙の導入
*不可触民によるカースト撤廃運動の高まりを受け、イギリスはコミュナル裁定(1932)を提出。不可触民への分離選挙を認める
※分離選挙
…ヒンドゥー教徒はヒンドゥー教徒の議員を、ムスリムはムスリム議員を、といったように自分の民族の代表のみを選ぶ方式の選挙
*インド側(会議派)の主張: 「イギリスの分割統治だ」
*イギリス側の主張: 「不可触民が不可触民の利益を代表できる制度だ」
○選挙制度をめぐる対立
アンベードカル: 不可触民のための分離選挙をイギリスに訴える
(不可触民自身が立ち上がり、カースト社会を変えるべきと考えた)
ガンディー: 分離選挙に反対
(不可触民のカースト・ヒンドゥーからの政治的分離は、不可触民制度の固定化を招く自殺行為であると考えた)
*イギリスがコミュナル裁定を提出
→ガンディーは分離選挙の撤回を求め、「死に至る断食」を開始
→アンベードカルは留保議席の導入と引き換えに、やむなく不可触民への分離選挙の撤回に合意(一方、シク教徒やムスリムに関しては分離選挙が導入された)
※留保議席
…不可触民(「指定カースト」)のための国会の議席枠が一定数設けられる制度。ただし、選挙で不可触民の議員を選ぶのはヒンドゥー教徒なので、これは不可触民への分離選挙ではない
○現在のインドの選挙制度(⇒後詳述)
*分離選挙はすべて廃止されている
*指定カースト、指定部族のための留保議席は存続している
◆州自治制度
*イギリス、インド統治法制定(1935)
→州自治制度が整備される
(ただし、緊急時には中央から派遣される州知事が州議会に介入できる)
*選挙が実施され、州議会が設置(1937)
→州政府が確立
第3章 インド独立へ
◆ムスリム連盟と「パキスタン」構想
○「連盟」の発展
※ムスリム連盟
…1906年に「全インド・ムスリム連盟」として結成。当初は親英組織だったが、第一次世界大戦でのイギリスの対トルコ開戦を機に反英へと転換、以後M.A.ジンナーらの指導の下でムスリム自治政府の樹立を目指す
*30年代初めに「パキスタン」構想が浮上。ムスリムによる独立国家の建設が掲げられる
*37年州議会選挙で、連盟はムスリム多住州でも敗北
(国内ムスリム有権者の5%の支持しか得ず)
なぜか?⇒連盟は第一にムスリムの権利を主張したが、ムスリム多住州ではムスリムの権利擁護は焦点とならず、むしろ州の利益を重視する地方政党などに票が集まったから
○第二次世界大戦中のイギリス、会議派、連盟の関係
(1)連盟-会議派
…対立関係。「ヒンドゥー教徒による支配」など、連盟による会議派批判が続く
(2)イギリス-会議派
…対立関係。会議派は戦争への非協力の姿勢をとる(第一次大戦中は英に協力した)。42年、会議派は「クイット・インディア(=インドから撤退せよ)」をスローガンに反英運動を活発化させる
(3)イギリス-連盟
…連盟はイギリスに接近し、勢力を拡大
○連盟の動向
*ムスリム連盟はラホール決議(1940)を採択
→ムスリムの多い地域のインドからの分離を目指すことを決定
(会議派や他のムスリム政党から非難を受ける)
○印パ分離の「責任論」
*印パ分離の原因は何か?という問いに対して、主張は以下の通りさまざま
⇒「イギリスの分割統治」 「ムスリム連盟/ムスリムの分離主義」
「会議派/ヒンドゥーの抑圧的な態度」 「宗教間の対立」
…etc.
*「誰の責任か」を問題にするばかりでなく、印パ分離を経験した人々の記憶に基づいた歴史記述が試みられている
◆印パ分離独立へ
○情勢の変化
*イギリスで労働党内閣(インド独立に協力的)が成立(1945)
→インドへの権力移譲の準備を進める
(cf. インド国内の反英運動、海軍の反乱、経済状況の悪化、国際情勢…etc.)
*インド国内の開発、中央集権化が進む
*46年州議会選挙で、ムスリム連盟はムスリム分離議席のほとんどを獲得
(cf. 37年選挙では惨敗)
→ムスリム代表としての性格を帯びるようになり、勢力を拡大
○会議派と連盟の対立
*会議派: 印パ分離に反対、中央集権化を目指す
*連盟: 会議派主導の中央集権化はヒンドゥー教徒による支配だとして反対
○内閣使節団案
*会議派と連盟の対立状況を打開するため、イギリスは内閣使節団案を提示
→連邦・セクション・州の三層構造の支配体制を提案する
(1)連邦: 中央集権的な独立国家
(2)セクション: 半独立国家のようなもの。ヒンドゥー教徒多住地域、北西ムスリム多住地域、北東ムスリム多住地域の3つのセクションで連邦を構成
(3)州: 従来の州を残存
*連邦の権限強化を主張する会議派と、セクションの自治権を主張する連盟が対立
→両陣営は決裂、イギリスによる調停は失敗
○印パ分離独立
*ジンナーの訴えの下、ムスリムは直接行動を起こす(1946/8/16、「直接行動の日」)
→暴動はカルカッタから全国へ拡大
→会議派はジンナーとの和解に見切りをつける
*マウントバトン裁定(1947)が下される
→印パ分離独立が最終的に決定。ヒンドゥー教徒多住地域はインド、ムスリム多住地域はパキスタンとなる。ベンガル、パンジャーブ両州はそれぞれ分割される
→国境線問題、資産分割問題が顕在化。印パ分離、州分割に反対する動きもあり
*インド、パキスタン独立(1947)
→独立後に国境線を発表。藩王国は統合される。暴動、難民が問題化
○領土問題
*ハイダラーバード、カシミール両州は、インドにもパキスタンにも帰属を拒否
*ハイダラーバード: 藩王はムスリム、住民はヒンドゥー教徒。インドによって軍事的に統合される。州自体は分割され消滅
*カシミール: 藩王はヒンドゥー教徒、住民はムスリム。印パ紛争の原因となる
○ガンディー暗殺
*ガンティーの融和政策に反対するヒンドゥー教徒の青年がガンディーを暗殺(1948)
第4章 インド独立時の国家体制
◆インド憲法の制定
○国民会議派主導の制憲
*ネルーが会議派の代表として制憲を進める
*制憲議会発足(1946)
→インド憲法施行(1950)
*国家体制: 中央集権的連邦制(準連邦制)
*憲法の3要素: 民主主義、連邦制、セキュラリズム(=政教分離主義)
○連邦の仕組み
*大統領、首相・内閣、下院(ローク・サバー)・上院(ラージャ・サバー)からなる
*大統領は、首相・内閣に比べて実質的な権限をもたず、名目的な存在。現在までに女性や不可触民が任命された例もある
*非常事態には、大統領は例外的に強い権限をもって内閣を解散するなど、州の自治に強く関与することができる
*初代首相にはネルーが就任
○州の仕組み
*知事、州首相、議会からなる
*知事は大統領と同様、通常は実権をもたないが、非常事態には議会を解散するなど州の自治に介入できる
○議会・選挙制度
*28の州、7つの連邦直轄領から、議員が選ばれる(任期5年)
*下院(ローク・サバー)のみ、直接選挙
*普通選挙制を採用
*分離選挙を廃止するが、マイノリティー保護のために留保議席を採用
○留保議席制度の採用
*アンベードカルは不可触民のための分離選挙を主張していたが、のちに会議派によって法相・憲法起草委員会委員長に任命された彼は、留保議席の採用で妥協
*指定カースト(=不可触民、SC)、指定部族(ST)のための枠が設置される
*小選挙区制を採用(現在は1人区制)。SC選挙区では、SC以外が立候補することはできない
*留保制度は議席だけでなく、教育や公的雇用にも採用されている。教育や公的雇用では、SC・STの他にOBCの枠も設けられている
(※OBC=Other Backward Classes/その他の後進諸階級)
○植民地時代からの継続
*官僚制度、軍隊、裁判所などは植民地時代のものを引き継ぐ
○基本権
*憲法には、植民地時代にはない基本権の規定がある(第3編、第4編)
第3編「基本権」: 裁判の根拠にすることができる
cf. 第3編第15条「自由、平等」
(1)宗教、人種、カースト、性別、出生地による差別の禁止
(2)井戸、食堂、浴場etc. での差別の禁止
第4編「国家政策の指導原則」: 裁判の根拠にはならないが、国の統治にとっての基本
第5章 ネルー時代のインド
◆ネルー時代
○ネルー時代とは?
*ネルーがインド統治に大きな影響力をもっていたとされる、戦後から60年代前半までの時代(cf. ネルー・デモクラシー)
*インド独立後、ネルーは首相・外相を兼任、V.パテールと共に政治を主導
(※パテール…保守派。副首相・内相を兼任)
○国民会議派の優位
*52年、初の連邦議会普通選挙が実施
→会議派は議席の74%を獲得(but 得票率は45%と低調)
→77年まで会議派政権が続く
*ネルーは、会議派の一党優位体制を実現するため、コングレス・システムを採用
(1)会議派内の多様性を尊重(→のち党派に分裂)
(2)野党の役割を重視(野党は会議派内の派閥に働きかけ、一定の影響力を保持)
(3)会議派内でも分権的な性質を維持
⇒会議派が野党と対立して強権的にふるまうのではなく、ある程度自由に動ける余地を残したシステム
○官僚制度
*ICS(インド文官職)は、IAS(インド行政職)に再編
→IASは中央集権体制の強化に寄与(パテールの主導)
○社会主義的傾向の出現
*当時のインドの知識人(会議派など)の中にも、冷戦の国際情勢の中で社会主義に傾倒する者が出現
◆言語政策(植民地時代~ネルー時代)
○言語の地理的分布
*北インドではアーリア系(人口の75%)、南インドではドラヴィダ系(人口の23%)
*最も多くの人々が使う言語は、アーリア系のヒンディー語
○ヒンディー語とウルドゥー語
ヒンディー語: ディーヴァナーガリー字。サンスクリット語の語彙を採用
ウルドゥー語: ウルドゥー文字。ペルシア語、アラビア語の語彙を採用
*両言語は非常に類似しており、かつては異なる言語という認識はなかったが、イギリス統治時代に両言語の区別が峻別化
→ヒンドゥー教徒はヒンディー語、ムスリムはウルドゥー語を使用することが慣習化
○公用語問題
*ガンディーは、インド公用語の解決策としてヒンドゥスターニー語(2種の文字を使用可能)を提案し、国内のムスリムに配慮。また、「奴隷化」「格差」を根拠に英語の公用語化に反対
→印パ独立後ヒンドゥスターニー語は存在意義を失い、インドではヒンディー語が公用語となる
→しかし、インド国内でも(特に南インドのタミル語地域などで)ヒンディー語公用語化に対する反発が生まれ、その対策として英語の併用が検討される
*パキスタン国内では、パンジャービー語の話者が最多数
→しかし、「ムスリムの言語」のイメージが強いウルドゥー語がパキスタンの公用語に
○戦後インドの公用語
*憲法第343条では、国の公用語はディーヴァナーガリー字によるヒンディー語
ただし、憲法施行後15年は連邦の公の目的のために英語を使用
→そのまま現在に至るまで英語が使用されている
*州の公用語は、州議会が決定
*憲法の第八附則は、公用語に関する委員会を構成する代表者の言語を規定
→第八附則に定められた言語は、たとえマイノリティー言語であっても、国内での高いステータスが保証される(ただし、公用語ではない)
○言語州の成立
*植民地時代、会議派組織の中で「言語州」構想がおこる(1920)
*言語州の発祥: 南インドのマドラス州にはタミル語地域とテルグ語地域があったが、テルグ語話者はタミル語話者による支配を恐れ、自らによる自治を始める
*独立後しばらくは、インド(会議派)の最大の目標は「国家統合」であり、言語集団の散在はその妨げになると考えられた
→言語州への再編は先延ばしに
*50年代に入ると、テルグ語地域の人々の独立州設立の要求が強まる
→インド政府はテルグ語地域にアーンドラ州設置(1953)
→全域で州を言語州へと再編(1956)
*言語州の中でも「マイノリティー言語」の話者の存在があり、問題を複雑化している
→第八附則などによってマイノリティー言語に対する配慮がなされている
◆宗教政策
○セキュラリズム
*インドの宗教政策の核はセキュラリズム(憲法3要素のひとつ)
→国家宗教をもたず、政教分離主義をとる
○民法と宗教婚
*憲法第4編(「国家政策の指導原則」)には、「画一的な民法典」の制定が明記されている
*それまで、同一宗教内のコミュニティーでさえも、カーストや地域の違いによって異なる法が採用され、統一した民法典が作られていなかった
*ネルー時代、アンベードカル法相の下でヒンドゥー法典の編纂が進む
(シク教、ジャイナ教、仏教についても同様に民法典がつくられる)
→but 法案は通らず、アンベードカルは法相辞職
*特別婚姻法制定(1954)
→インド国内の民事婚を定める(国民全員に適用)。異教徒間の婚姻についても規定
*ヒンドゥー婚姻法制定(1955)
→ヒンドゥー教徒の宗教婚を定める。一夫一妻制、カースト差別の否定などを盛り込む
*宗教婚が制定されたのは、
(1)ヒンドゥー教徒
(2)ムスリム
(3)キリスト教徒(19世紀に制定された婚姻法を改定)
(4)パールシー(=ゾロアスター教徒)
の4つについてのみ
*女性が宗教婚によって保障される権利が宗教によって異なるため、これを人権の見地から疑問視する声もある
◆経済政策
○会議派の政策方針
*ネルーが社会主義的なのに対し、パテールは資本家寄り
*インド国内の開発には国家の役割が必要不可欠である、というのは会議派内の共通認識
○国家主導の開発
*国家計画委員会が発足(1950)
*第一次五ヵ年計画が実施される(1951~55年度)
*産業開発および規制法(=産業法)が制定(1951)
→ライセンス統制制度が整備される。政府のライセンスを受けた企業のみ、工場の建設・拡張・移転などができる
→政府(官僚)の権限が拡大
→行政に接近して市場を独占しようとする企業が増加。官僚・政治家・民間の癒着が問題化
○第二次五ヵ年計画…開発の進展
*マハラノビス(ネルーの経済顧問)の主導下で第二次五ヵ年計画実施(1956~61年度)
*公共投資を重工業部門に重点的に配分
*産業を3つのカテゴリーに分類(国家部門/民間部門/両部門の中間型)
*混合経済体制をとる
→国家の保護を受けた国内企業は、外国企業との競争を避けつつ市場を確保
○産業保護政策
*小規模工業を保護(cf.「小規模工業こそが雇用を創出する」)
○貿易
*外貨節約のために輸入代替を実施
(※輸入代替…輸入品を国産品に置き換える工業化)
○農業
*土地制度改革は抜け道が多く、不徹底に終わる
*農業生産も政府の思い通りには伸びず
○経済状況
*50年代にはGDPが上昇
→but 第四次五ヵ年計画のころには経済は停滞し、国際収支の悪化が問題に
◆外交政策
○非同盟政策
*ネルーは周恩来とともに平和五原則を発表(1954)
*バンドン会議(第一回アジア・アフリカ会議)を開催(1955)
※非同盟政策
…米ソの軍事同盟には関与せず、自主的な外交政策によりすべての国との友好関係を保つことを目指す(他国の介入・干渉を排除することが目的)
○カシミールをめぐる印パ紛争
*カシミール: 藩王はヒンドゥー教徒、住民はムスリム
*パキスタンの一部族がカシミール藩王国に侵入(1947)
→カシミール藩王はインドへの帰属を宣言
→インド政府はカシミールに軍を投入
→のちにパキスタン政府も軍を投入、紛争へと発展(第一次印パ戦争)
*49年、国連の働きかけで停戦。停戦ラインによってカシミールは分断
(帰属を決める住民投票は行われず)
*65年、再びカシミールをめぐって印パ対立(第二次印パ戦争)
○中印国境紛争
*インド政府は、カシミールとその東部地域をめぐり中国と対立
→中印戦争勃発(1962)
→中国が優位に立ち、停戦後も占領地域から撤退せず
○米ソとの関係
*60年代前半はアメリカと友好関係
→インドがベトナム戦争でアメリカを批判したことを機に、米印関係は悪化
→インドはソ連に接近
→印ソ平和友好協力条約を結ぶ(1971)…インディラ・ガンディー時代
*上記のように、60年代以降のインドは非同盟政策からの逸脱がみられる
○国内の軍事制圧
*ハイダラーバード藩王国を軍事統合(1948)
*ゴア(ポルトガル領)を軍事統合(1961)
◆軍隊、教育
○軍隊
*イギリス統治時代には、イギリス人の将校の下でインド人の軍隊が編成された
→徐々にインド人化が進み(特にWWⅡ中)、独立時には完全にインド人により編成
*シク教徒が軍事要員として重用される
○教育
*ネルー時代の教育政策は不十分?(cf. 識字率の伸び悩み、教育水準の男女差)
第6章 ネルー・ガンディー王朝の確立
◆会議派政権の継続
*会議派のシャーストリー政権(1964~66)がネルー政権に後続
◆インディラ・ガンディー時代 ~前編~
○女性首相の誕生
*ネルーの娘、インディラ・ガンディーが首相に就任(1966)
→南アジアで2番目の女性首相。ネルー人気による形式的な指導者として就任
→but のちに、外交・内政ともに強力な指導力を発揮
*食糧危機、地方と中央の対立、労働者、学生、会議派内の対立…etc. の問題に直面
*ラジーブ(のちに首相に就任)、サンジャイの2人の息子をもつ
○世論の動向
*第4回総選挙が実施される(1967)
→連邦議会の会議派の議席は54.2%(第1~3回総選挙〈74.4%、75.1%、72.9%〉から激減)
州議会内の議席も低調(過半数を獲得したのが17州中9州のみ)
*会議派は、国内での基盤を確保し影響力を保持するため、憲法第356条を用いて州政府に介入(第356条: 地域的非常事態時の州の大統領統治)
○会議派の分裂
*インディラ・ガンディーは社会主義的改革を実行
(銀行国有化、土地改革、旧藩主への年金の廃止…etc.)
→社会主義的政策に反対する議員が会議派から離脱(1969)
→会議派はインディラの私党化(インディラによる実質的な支配が行われる)
○農業政策
*70年代、緑の革命を実施。食糧の自給化を目指して品種改良などに着手
→世界で最も成功した米生産国となる
(but さらなる格差を生み、経済は相変わらず停滞)
○公共部門
*ソ連をはじめとする社会主義国との協力で公共部門を充実
○産業政策
*ネルーの政策を継承し、輸入代替による工業化をはかる
○国防
*軍事費を拡充
◆インディラ・ガンディー時代 ~中編~
○議席の回復
*第5回総選挙が実施(1971)
→会議派は、「貧困追放(ガリービー・ハターオー)」をスローガンに支持者を獲得
(「ポピュリズムの選挙」)
→会議派は連邦議会の68%の議席を得る(前回の54%から回復)
○第3次印パ戦争
*西パキスタンのパンジャーブ地方優位の政治に、東パキスタンの自治運動が活発化
→パキスタン総選挙実施(1970)、東パキスタンでアワミ連盟(独立派)が圧勝
→インド政府は東パキスタンの独立運動を支援
→第3次印パ戦争(=「バングラデシュ独立戦争」)勃発(1971)
*結果: 西パキスタンは敗北、東パキスタンはバングラデシュとして独立
→パキスタンの地位低下により、インドは南アジアで圧倒的優位に立つ
→外交面では「強いインド」が実現
(cf. 74年には核実験に成功、国際社会に対する示威効果を発揮)
○国内問題の悪化
*72~73年、深刻な食糧不足、物価上昇(cf. 石油危機)、軍事費の予算圧迫が問題に
→会議派に対する反対運動が活発化
○強権発動
*71年の第5回選挙で選挙違反(州政府による不当な援助)を行ったとして、高裁はインディラに有罪判決を下し、議員資格の停止を決定
→インディラは対抗して非常事態宣言を行う(1975)
(cf. 「民主主義を阻害する陰謀が存在する」)
*国内治安維持法を制定、反対派を排除
*基本権を一部停止
→26の政治団体を非合法化、言論・出版・集会の自由を制限
*第6回総選挙の実施を延期(76年から77年に)
*憲法を改正、前文を大幅に修正(1976)
*サンジャイ(インディラの次男)主導下で産児制限を課し、人口抑制のため強制手術を行う
*スラムを強制的に撤去
○国民会議派の大敗
*第6回総選挙が実施(1977)
→会議派敗北(全体の28%の議席。サンジャイ落選)
→インディラ・ガンディー反対派のジャナタ党が政権を掌握(1977)
(初めて会議派でない党による政権が誕生)
→左右各派が反会議派だけを旗印に野合した政党だったため、政権獲得後すぐに分裂状態に
(cf. 80年にはジャナタ党の流れを受けたインド人民党〈BJP〉が誕生)
◆インディラ・ガンディー時代 ~後編~
○会議派の復権
*69年に続き、会議派が再び分裂(1978)
→インディラはガンディー派国民会議派を結成、旧党員のほとんどを吸収
*ガンディー派国民会議派は第7回総選挙で勝利(1980)
(分裂・崩壊状態にあったジャナタ党は支持を失う)
→インディラは首相に返り咲き、84年まで政権を維持
○インディラ暗殺
*インディラはシク教徒の警備兵に暗殺される(1984)
⇒なぜシク教徒に殺されたのか?
※シク教
…16世紀、ナーナクによってヒンドゥー教、イスラム教の影響を受けつつ成立した宗教。パンジャーブ地方を本拠地とし、黄金寺院を総本山として発展する
*イギリス統治時代、シク教徒を代表する党としてアカーリー・ダル成立
→ヒンドゥー語地域からの独立運動を主導
→戦後、パンジャービー語(シク教徒の母語)州創設が実現(1966)
*67年、アカーリー・ダルは州選挙に勝利
→アカーリー・ダルの下でパンジャーブ州の開発が進み、豊かな農業地域へと発展
*富裕化した農民による自治権拡大運動が活発化(1970)
→過激派によるカーリスターン運動がおこる(シク教徒の独立国家「カーリスターン」樹立を主張する運動)
*インド政府は黄金寺院を武力制圧(1984)
→シク教徒の大きな反発を呼ぶ
→同年10月、インディラ殺害へ
*暗殺後、デリーでシク教徒への攻撃が激化
⇒セキュラリズムが謳われる独立後のインドにあっても、宗教のアイデンティティが依然として政治に強い影響力をもつ
※このように、宗教、カースト、言語etc. のアイデンティティが関わる政治のことをアイデンティティ政治とよぶ
◆ラジーブ・ガンディー時代
○「ネルー・ガンディー王朝」の継承
*インディラの長男ラジーブ・ガンディーが首相就任(1984)
(cf.インディラの政治的後継者と目されていた次男サンジャイは、80年に飛行機事故で他界)
*第8回総選挙実施(1984)
→インディラ暗殺に対する同情票が集まり、連邦議会議席の3/4以上を獲得、会議派史上最大の勝利を飾る
*ラジーブは「合意」路線による宗教間・国家間の問題解決を強調
○会議派の苦戦
*ラジーブの汚職疑惑が政治問題化(1987)
→ラジーブの威信が低下。会議派は州選挙で苦戦を強いられる
○統一民法典問題
*ムスリム女性シャー・バーノが、刑事訴訟法に基づいて、元夫に対し扶養費支払いを要求
→夫はイスラム法に基づいて支払いを行う
→どちらを優先すべきかが問題に(法律で明文化されていない)
*最高裁で、刑事訴訟法に基づく支払い義務を認める判決が下される
→ムスリムの一部から、国家による宗教への干渉であるとして激しい反発が生まれる
*ムスリムの反発を受けて、ムスリム女性離婚権保護法が成立(1986)
→インド国内のムスリム女性が、離婚に際し夫から扶養費を受け取る条件が厳しくなる
(法律名とは裏腹に、最高裁の判決を覆したもの)
→ムスリム女性の権利がいっそう保障されなくなり、「似非セキュラリズム」との批判が噴出
(ムスリム保守派への一時しのぎの迎合政策にすぎない?)
○スリランカ問題
*スリランカは、1948年にイギリスから独立してからも、国内に民族的対立を抱える
シンハラ人: スリランカ人口の7割以上を占める。主に仏教徒からなる
タミル人: セイロン島北部・東部に居住する少数派。主にヒンドゥー教徒からなる
スリランカ・タミル人: 古くからスリランカに住む
インド・タミル人: 植民地時代、プランテーション労働者としてインドから移民
*スリランカ政府によるシンハラ人優位の政治に対し、タミル人の反発が激化
→インド政府はインド平和維持軍をスリランカに派遣、タミル人の分離独立運動に介入(1987)
*タミル人過激派による反政府組織タミル・イラーム解放のトラ(LTTE)が武装闘争
→LTTEとインド平和維持軍との戦闘が激化
○ラジーブ時代の終焉
*第9回総選挙実施(1989)
→会議派敗北(cf. 汚職事件、統一民法典問題)
→ジャナタ・ダルのV.P.シンが首相に就任
(ジャナタ・ダルは1977年に政権を掌握したジャナタ党とは別物!)
*V.P.シン政権も、その後のチャンドラ・ジェーカル政権も長続きせず
○ラジーブ暗殺事件
*第10回総選挙の最中、LTTEの自爆者によりラジーブ・ガンディー暗殺(1991)
第7章 現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム
◆ヒンドゥー教の概要
○ヒンドゥー教の特徴
*古代インドの自然発生的宗教。社会習慣的性格をもつ
*B.C.6世紀~B.C.4世紀に、インド古来のヴェーダ文化の枠組みの変化に伴い、バラモン教が土着の民間信仰などを吸収して大きく変貌をとげた形のもの
*多様性を有し、「どのような宗教か」という問いに対して極めて曖昧な答えしか存在しない
○ヒンドゥー教の神々
*バラモン教に起源をもつ
*ヴィシュヌ神、シヴァ神、ブラフマー神の3大神が多様な化身をもつ
*ブッダ、ラーマ等がヴィシュヌの化身としてヒンドゥー教に取り入れられている
◆ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭
○植民地時代のヒンドゥー統一運動
*イギリス統治時代、エリート層インド人の間で宗教・社会改革運動が活発化
→「ヒンドゥー教」の明確な定義付けを目指す
*あたかもヒンドゥー教が本来は統一的宗教であったかのような、復古主義が台頭
→インドのナショナリズムと結びついて発展
*民族奉仕団(RSS)設立(1925)
→ヒンドゥー教徒の民族意識と結束力を強化するための組織として位置づけられる
*サーヴァルカルがヒンドゥー統一運動の思想的な基盤を築く
※V.D.サーヴァルカル
…著書『第一次インド独立戦争』で、インド大反乱(1857~59)におけるヒンドゥー・ムスリム連帯に一つの焦点を当てる。しかし思想的転換を経て、後に著した『ヒンドゥトゥヴァ』では、複雑な歴史を持つ広大なインドに「一つの国家」「一つの国民」「一つの宗教」という概念を投影。ヒンドゥーを「インドに生まれ、そこを父祖の地、かつ聖なる地と認める人々」、つまり祖国への愛と共通の血によって結ばれた一つの民族を構成する人々と定義する。インド以外に起源をもつ信者集団(ムスリムやキリスト教徒など)も、統一的インド国家の形成に参与しうるとしつつも、ヒンドゥーとは同格たり得ないとした
○インド独立後のヒンドゥー・ナショナリズム
*民族奉仕団(RSS)の一員であるゴードセーがガンディーを暗殺(1948)
→同年RSSは非合法化されるが、翌年には解除され活動再開
*ゴードセーの主張
⇒「ムスリム勢力への迎合によって印パ分離が起き、ヒンドゥーが犠牲となった」
Ex. カシミール州の帰属が焦点となった際、インド政府は当初パキスタンへの資産分割を差し控え、契約を反故にしようとしていた。しかしガンディーは人道的立場からこれに反対、断食によって政府に政治的圧力を行使し、資産分割を遂行させる。これ以降ガンディーに対する一部ヒンドゥー保守派の反発が激化した
*RSSは、一時非合法化されたことにより、政治に一定の影響力をもつ必要性を痛感
→RSSの利益を代弁する政党として、インド大衆連盟を結成(1951)
→後にインド人民党(BJP)と改称(1980)
○BJPの発展と政権獲得
*89年以降、BJPが連邦下院での議席数を急速に増やしていく
(議席数: 2→86→120→161→179〈1984→89→91→96→98〉)
*96年選挙の結果、単独政権樹立(同年、解散)
*98年選挙の結果、他の政党と共に連立政権樹立
(2004年に政権を国民会議派に明け渡すまでBJPは最大与党となる)
※なぜBJPは国民の支持を集めたのか?
(1)会議派批判
…セキュラリズムがムスリムへの迎合の口実となっている?(cf. 統一民法典問題)
(2)経済の自由化(1991~)
…外資に対する制限を緩和
ライセンス制度を大幅に見直し(一部を除いて廃止)
公企業の業種を民間に解放
金利規制の緩和など、金融改革にも着手
→経済的基盤を持ち、消費志向性の高い「新中間層」が台頭(80年代後半)
→政治的・経済的に安定志向が強く、ヒンドゥー・ナショナリズム、アイデンティティ政治への傾倒がみられる
(3)ヒンドゥー・ナショナリズムの大衆動員
Ex. アヨーディヤー事件
…北インドのアヨーディヤーに建てられたイスラム寺院(モスク)と、その破壊に関する問題。このモスクは16世紀にムガル帝国初代皇帝バーブルによって建てられたが、ヒンドゥー教徒はモスクのあった場所にラーマ(ヴィシュヌの化身)の生誕地があったと主張、アヨーディヤーでのヒンドゥー寺院の建設を求める運動を1980年代以降特に活発化させる。そし
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