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广外日本文化自考复习资料
一、 岩宿文化(?~約8500年前)
縄文文化は、日本列島の全域にわたってみられる。それぞれの地域では特色をもちながら、日本列島全体としては似かよった内容をもち、そのころの朝鮮半島を含めた大陸の文化とは違う独自の文化を生んでいった。大陸から切りはなされている日本に、縄文文化は狩猟・採集の経済基盤のもとに独自に展開する。8,000年以上の長さを有する縄文時代は、主として縄文土器の研究から五つから六つの時期に分けて考えられる。
【土器】縄文時代の土器は、深鉢が基本的な形態となる。
【石器・骨角器等】縄文文化の道具は、磨製石器や釣針などの新しい遺物の出土が注目される。道具の製作に磨製の手法が多用されることも、この文化の特徴であろう。
【住居と集落】縄文文化は、定住集落をもつ周年的な生活を営む人々の文化であった。当時は竪穴住居が一般的であり、用材は樹木を磨製石斧で加工した。
【資源開発】集落の立地する場所によって、周辺の資源に差が生ずる。縄文文化期の生業は、植物採集・狩猟・漁撈活動を組み立ててのくらしであったから、食生活はそれぞれの集落ごとに独立しているもののバラエティーに富んだものである。
【集落の維持】また環状列石や配石群が各地に現われるのは、共同祭祀を行っての集団運営が存在したことをうかがわせる。
抜歯:通過儀礼に於いて敢えて特定の永久歯を抜く儀式が行われる場合がある。日本においては、縄文時代の土坑墓や貝塚から出土するヒトの頭骨において、健康な歯を抜いている事例の多いことから、抜歯が広く通過儀礼として行われていたことが明らかにされている。
二、 绳纹文化(約8500年前~約2500年前)
貝冡
三、 弥生文化(前3~3世紀)
銅鐸(どうたく)とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のこと。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器である。これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあった。
民族文化的形成
日本文化の始原的な形態は、やはり弥生時代に稲作農耕を基盤として形成されtことになる。大和朝延のもとに。仏教や中国の文物がさかんい輸入され、日本文化はこれらアジア大陸の文明の影響のとに成長。
四、 古墳文化(4~5世紀)
1) 古墳文化は、3世紀中葉から6世紀頃までの前方後に典型的な高塚墳墓が営造された時代の文化を指す。
2) 古墳造営に象徴的意味は大和王権を中心とした古代統―国家形成期である
早期宗教特点
1) 弥生時代以後の民族宗教は、農耕儀礼を本質とするものであるから、すべての呪術的行為が、終局には農耕の順調な進行の保障とてある。
2) 原始的な祭りは、臨時の施設けて祭りが終われば施設は撤去されたのであって、固定した建築施設を必要としなかった。
3) (日本神的特点)人間の日常生活と密接な関係のあるへビ·シカ等の動物や自然物や人エ物まが、それぞれ呪力と関係のあるものとして、神霊を媒介する力があると見られるとともに、それ自体が神である。
神社
一定の場所が祭場として反復使用されるにつれ、そこが神聖な地域として特別に取り扱われるようになり、やがてそこに神社が建築されることとなるのである。
埴輪
曰本の古墳の装飾として墳丘上あるいはその裾部に並べ置かれた土製品。円筒形をしている円筒埴輪と人物、家動物、器材などおかたどった形象埴輪の二つに区分される。
大王
大王は5~6世紀王の呼称として用いられた、律令制のもとで7世紀ごろから「天皇」という公式称号にきりわった。
五、 飞鸟文化(538~710年)
飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。(朝鮮半島を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。)
1) 五经博士
五経博士:五経博士は前漢時代の官職で、五経は儒教の経典である五経(『詩経』『尚書』『易経』『春秋』『礼記(らいき)』)の専門家。継体(けいたい)天皇の代に段楊爾(だんように)ら(6世紀ごろ)が来日し、日本に儒教を浸透させた。
2) 仏教传到日本的过程:
インドからシルクロードにあった国々を経て、中国に伝わった仏教は北伝教と呼ばれているそして。南北朝の時代に中国から朝鮮の国々に伝えられ、百済から曰本に伝えられることになった。もう一つ、中国のチベットやのちに中国の内地、曰本に伝えられた。
3) 公传
仏教の曰本への公伝
二、三世紀仏教は、中国文化を曰本に伝えるための重要な媒体の役目を果たした。
聖徳太子にとって仏教とは何であったのか。
1) 仏教は第―に、東アジア世界の共通文化であった。
2) 第二に聖徳太子にとって仏教は思想であった「憲法十七条」から見られる。
3) 仏教に対する太子の熱意を示したものは、法隆寺の建立とならんで、三経義疏の著述がある。
4) 圣德太子
聖徳太子:592年,推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し,甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ-「聖徳太子」)が皇太子となった。廐戸皇子は推古天皇の摂政となり,政治を行った。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし,遣隋使派遣,冠位十二階や十七条憲法を制定した。また,天王寺・法隆寺などを建立した。
5) 圣德太子的功绩
『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)とは、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書である。日本書紀に推古14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事があることもあり、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。
「冠位十二階」
1) 日本で最初の位階制度、冠の色によって階級を表した。聖徳太子が制定。
2) 個人を単位とした政治的序列を表象する冠位を導入したもので、官僚制への一歩の前進である。また、憲法は、官僚としての心構えを教えようとするところに置いている。
6) 遣隋使
遣隋使(けんずいし):6世紀初頭、大和朝廷が中国の隋(581~618)に対して派遣した使節。遣隋使の場合、一応の対等外交を志向しており、また仏教重視の姿勢から主として文化導入を意図していたらしい。 (聖徳太子の政策と思われるこれらの遣使は、中国統一王朝たる隋の出現という東アジア世界の大きな変動のなかでの倭国外交として、朝鮮諸国との関係も含め把握する必要がある。)
7) 大化革新
大化改新
は大化元年に中国の模範に徙って日本を改造すべく政治、経緕上の大変革である。
内容:
1) 理諭的には絶対的権力者である天皇の下で、唐朝のように精巧な中央集権的官僚体制。
2) 中国を模倣した中央政府をつくることは、中国風の地方行政機関を整備。日本では、中国の土地所有制度や課税制度までと入れようとした。
3) 日本の最初恒久的首都の建設があげられる。平城京を建でられた。
4) 古代東アジア的な中央集権国家成立の出発点となった。
8) 大学寮
大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式行った機関である
9) 律令制
主として奈良から平安時代に施行された律令に基づき公地公民制を基礎とする中央集権的官僚制、律令法は刑法の律、刑法以外の諸規定を網羅した令、補足法としての格、施行細則である式からなっており、唐制に習ったものであった。
律令的基本思想:
律令の基本をなす思想は、儒家と法家の思想であり、特に、理非を弁別することのできる官人が、愚昧な人民を教え導き、教化することが統治であるという考えが重んじられていた。
律
唐律を母法とする日本の古代法典の一つ。刑法および官吏懲戒法に相当する。
令
刑法以外の国家組織の基本的な諸制度である行政法、訴訟法、民法、商法などに相当するものを網羅的に規定したもの。
大宝律令
律六巻令十一巻の古代の法典。天智朝以来の法典編纂事業の大成で、律令国家盛期の基本法典となった。
10) 平安京
桓武天皇の延暦13年に長岡京から移って、明治1年に東京へ移るまでの都。今の京都市の中心部。
11) 東大寺
奈良市にある華厳宗の大本山。南都七大寺の一つ。天平年間に聖武天皇の勅願により建立された。
六、 奈良文化(710~784年)
1) 遣唐使
遣唐使 けんとうし:唐との国交を回復して、国内の制度の整備・先進文化の摂取を図るために、留学生・学問僧を含む遣唐使を派遣するようになった。遣唐使たちは、長い期間にわたって大唐の学問・技術・思想・宗教・芸術・政治などの優れた文化や文物を日本にもたらし、国家や社会生活に大きな影響を与えた。平安朝後期からの日本文化の開花は、こうした唐文化の摂取消化の基盤の上に培われていった。
2) 留学生の特点
a) 当時の日本が、中国文化的先進性と価値とを率直に認め、それを学びとるのが国家的要請であったこと。
b) 中国語に堪能で、通訳を業とする渡来人がいた。入隋留学者の勉学を助ける役をつとめたと。
c) 僧がたんに仏教だけではなく、儒教をもふくむ広い範囲の学問を修めてきたことなどである。
d) 留学生・留学僧が仏教儒教のみならず、政治経済をも学びとってきた。日本仏教史上においてもきわめて重視され、この経典を根幹として天台宗、日蓮宗がひらかれた。きょきせつきょねきしゃな
3) 遣唐使的目的
4) 学問僧
学問僧:学問に励む僧。特に、外国に留学して学ぶ。遣唐使としての学問僧は仏教だけを伝えたのではなくいろんなものを持ち込み、持ち帰った。実は「日中文化交流史」の中で果たした役割はあまりにも大きい。
5) 末法
釈尊入滅後の仏教流布の期間を3区分した最後の時期、像法の後の1万年を指し、仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得るものもなくなって、教法のみが残る時期。
6) 寺院
寺院は当時の先進的な知識人と技術人者集団をふくむ文化組織であった。
7) 南都六宗
奈良時代の仏教は、南都とよばれるようになったもとの平城京の仏教の意味で、南都の仏教、あるいは南都六宗とようばれる。
法相宗·律宗·華厳宗なとが、これらは、後年の仏教の宗派とは異なり、むしろ学派というの方かい。
8) 天台宗
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経(法華経)を根本経典とする天台教学に基づく。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄によって平安時代初期に日本に伝えられた。法華経学、密教、戒律、禅を兼修する
9) 真言宗
真言宗(しんごんしゅう)は、空海によって9世紀初頭に開かれた、日本の仏教の宗派。(空海が中国(唐時代)の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。空海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。)最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いた。
10) 浄土について
(「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原義であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。)中国・日本においては、浄土教の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。
浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。「浄土門」、「浄土思想」とも。
11) 奈良佛教特点
奈良時代には東大寺をはじめとして、各国に国分寺が建立され、南都六宗として知られる諸宗が勢力を誇った。南都六宗とは三論宗、法相宗、成実宗、倶舎宗、華厳宗、律宗である。
12) 和汉文学
a) 《古事记》
b) 《日本书纪》
c) 《风土记》
d) 《万叶集》
e) 《怀风藻》
f) 《浦岛子传》
13) 絵巻
巻物に絵を描き、繰り広げてゆくこよって次々と変化する面面を鑑賞させるもの。内容は経典の絵解き、作り物語、説話文学、高僧伝、社寺の縁起、儀式の記録など多種多様。多く画面を説明する詞章を書き添え、書体の美しさをも鑑賞。
七、 平安文化(784~1192年)
1) 迁都目的
2) 平安(国风、贵族)文化特点
国風文化(こくふうぶんか)とは日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。
中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風文化と呼んでいる。
特徴: 1、遣唐使の停止。遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展した。遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であった。
2、浄土教の流行。末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した
3、女流文学の発達。清少納言や紫式部など多くの女流作家が生まれることとなった。物語と女流日記の創作が流行っている。
4、かな文字の使用。奈良時代から日本語を表記するため漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、この時代になって仮名文字が広く使われるようになった。
かな文字、日記文学、物語
a) 《古今和歌集》
古今和歌集
八代集の第一。勅撰和歌集の始まり。20巻。紀貫之·紀友則ら撰。延喜年間その歌風は調和的で優美·繊麗。真名序·仮名序がある。
b) 《土佐日记》
土佐日記は紀貫之が彼の旅の記録を日記にまとめた作品である。「土佐日記」は、和文で書かれているが、冒頭の部分に。男が書くという日記というものを、女の身である作者も書いて見たいと思うという文章があり、作者を女性に仮託することによって、かな文字で日記を書くことを正当化している。かな文字で書くことによって、「土佐日記」は、作者の私的な体験や感情を表現することができ、和文の文学作品の先駆となった。
c) 《蜻蛉日记》
蜻蛉日記
右大将藤原道網の母の自叙伝的な日記。21年間の結婚生活ををこまごまと描き出す日記である。
d) 《源氏物语》
e) 《伊勢物語》
平安前期の歌物語。複雑な成立を経ているらしく、作者、成立年代とも不詳。在原業平を主人公として、歌を中心とする短い物語を一代記風に連ねている。
f) 旋頭歌
五七七·五七七と片歌を反復した六句体。本来民謠的な謠い物が多い。
1) 女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代ごろまでの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。
2) 源信
平安時代の僧。天台宗の観心念仏と善導の称名念仏を合わせ、「往生要集」によって日本浄土教の祖とされる。
3) もののあはれ(物哀)
平安時代の自然観および文芸の理念、本質とされるもので、しみじみとした情趣の世界。
4) 尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)
幕末の政治運動の一。天皇の権威の絶対化と開国反対を主張し、勅許なしで西洋列強と条約を結んだ幕府と対立。文久3年後で衰退。
5) 保元・平治の乱
平家時代未期に起った二つの争乱。保元の乱
は武士が政界に進出することとなった。また平治の乱後、平氏の全盛期を迎えた。
八、 镰仓文化(1192~1333年)
1) 鎌倉時代の文学、美術
a) 鎌倉時代に入って、動乱の時代を写し、人間のあり方を考え、思想的な内容を含む記述をしよ。「方丈記」に代表されうような和漢混淆文が生み出されることになった。
b) 平安時代も後期に入って、各地で戦乱が起こると、公家たちも遠い所の戦乱に興味を抱いて合戦の顛未を記述するようになった。はじめ、合戦の記録は簡単なものであったが、保元の乱で、都が戦場になって以来、公家にとって戦乱は余所事ではなくなり、「保元物語」、「平治物語」という軍記が書かれることになった。
c) 武家社会に対する観察と理解を深めた公家によって書かれた「平家物語」は、高度な文筆能力を駆使して、武家の台頭のありさまを描き出した古典として、世界の中世叙事詩の中で、もっとも高度な達成を示す作品とされている。
d) 鎌倉時代の美術が武士的であるとは一般に指摘されるところである。極めて大づみに双方の美術を比較すると、藤原美術には藤原貴族の生活に基盤をもつ内容(作品のテ-マや素材)および彼らの生活感情にふさわしい静的・叙情的な形式が主流をなし、鎌倉美術には武士的もしくは反藤原貴族的な階層の生活に基盤をもつ内容および彼らの生活感情にふさわしい動的・叙情的な形式が主流をなしている
2) 镰仓佛教特点
鎌倉時代仏教の歴史的意義:
a) 鎌倉時代を中心に、新宗派が多く現れ、それぞれ独創的教義なの体糸と、その実践の方法とを確立し、その後の時代に大きな影响を及ぼした。新仏教の形成を促進し、それを性格づけた思想的契機は未法思想である。
b) 新仏教の諸宗派が、そののち14世紀から16世紀にがけて民間に普及し、それざおれ大きな教団を形成するとともに、現代に至る日本人の大多数の宗教生活の拠りどころとなっている。
c) 中世浄土教の思想的源泉として源信の「往生要集」が存在したことも否定できない。
d) この書が中世浄土教各宗の祖師や知識階級の念仏者に与えた影响は大きい。
e) さまざまな教えの中がら、称名念仏を選択し、専修するという点で革新的な教えであった法然の主張は、数多くの門弟に受け継がれたが、それをより徹底させたのが親鸞であった。親鸞は、下級公家の子に生まれ、幼時に比叡山に入った。
3) 幕府与禅宗
武家与禅宗的关系?
1) 幕府の政治的地位の向上は、幕府の上層指導者に治者の自覚をもたらし、学問·文化に対する関心が高まることになった。時頼のころのち顕著になる幕府の禅宗保護も、このような動きのなかで理解される。
2) 鎌倉時代の初め、すでに栄西は宋から臨済禅を伝えたが、台·密·禅を三宗兼修の立場をとるなど純粋な禅とはいえなかった。のちに鎌倉に建長寺を開くと、厳しく純粋な禅を挙揚し、禅宗史に一時期が画された
3) 幕府が摂取しようとしたのは禅だけではなく、禅に伴う中国文化のすべてであり、儒教から寺院建築、頂相·水墨画などの絵画、さらには生活様式にまで及んでいる。
4) 輸入して武家古典文化をつくし、京都の公家文化に対抗しようとする試みは成功した。禅に関するがきり鎌倉は日本の中心となり、逆に鎌倉から京都に禅が伝わった。
4) 禅宗
仏教の宗派の1つ。大乗仏教系。インドから中国に伝えたとされる仏教が源流である。日本では臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の総称として用いている。不立文字を原則とするため中心的経典を立てず、教外別伝を原則とするため師資相承を重視し、そのための臨機応変な以心伝心の方便など、種々の特徴をもつ宗派である。
5) 承久の乱
承久3年(1221)の朝廷と鎌倉政府との戦い。公家勢力の回復を図るためにがねて鎌倉幕府打倒の機をうかがっていた後鳥羽上皇は、源実朝暗殺後の幕府の内紛に乗じて挙兵。
結果は幕府の勢力はこの機会に一挙に西国に伸張し、全国政権としての基礎を固めた。
6) 神道
a) 神道は日本固有の宗教である。町並みのなか、ビルの谷間にも、人々の生活のあるろころには、必ずこんもりと茂った森に囲まれた神社がある。春と秋には大きな祭りがそこで行われている。
b) 日本の神社の多くは、大木や岩や池を神聖視したり、なかには御神体するものさえある。
c) 神道の起源についてはすでに旧石器時代から、た造形があらわれる。神道の教義や組織におおきな影響をあたえたのは仏教である。
7) 京都五山
京都五山(きょうとござん)とは、五山の制のうち京都の禅宗(臨済宗)の寺格、官寺制度である。
8) 五山文学
五山文学(ござんぶんがく)は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学である。五山文学こそは、五山文化の中心であった。宋元禅林においても文学が占める位置は非常に大きかったが、入宋僧や入元僧らにより、その禅風が伝来すると、こぞって文学志向が高揚することとなった。 鎌倉五山や京都五山では、幕府の外交文書を起草するという必要性も伴い、四六文を用いた法語や漢詩を作る才が重視されたことも関係して、五山文学が栄えることとなった。
9) 唐様
美術工芸用語としては、中国的様式の美術工芸品をいう。
10) 武家と公家文化
武家
天皇·上皇·貴族——都という古い中央集権的勢力と、
公家という新しい分立封建勢力と
これが二重政権の時代といわれる鎌倉時代を、武家政権の創立期として、また武家文化と公家文化との古典的対立時代、歴代であろう。
公家
公家は、平安時代以来の知的、文化な活動を受け継いでいることを誇示して、武家に対する優位性を示そうとした。
a) 公家文化をするもののつは、であった。第八番「新古和歌集」
b) 文字の書法、漢籍や和書の学問、笛、琴、琵琶など、公家文化を構成する全での要素が、道として立てられ、護り伝えられることになった。 橘成季「古今著聞集」
11) 「御成敗式目」
a) 1232年、執権北条泰時の指導の下に制定された鎌倉幕府の基本法典。独自の武家法理が成文化されたものである。法理的には日本的武家法の根本法典として、室町幕府法や戦国家法に至るまで大きな影響を与えた。
武家の守るべき道徳の本拠を指示し、併せて幕府政治の律法とその運用の精神を明らかにしたことである。
b) 意义:
「御成敗式目」の制定によって武家の文化が始めて当時の社会における指導的地位を確立した。律法は時代の推移と共に追加増補されてうくし、また次の室町時代·江戸時代と武家政権が交替するに連れて、その都法制も改変せられて、発逹する所があったけれども、最初の御成敗式目に指し示された武家の道徳律は、そのまま承け継がれて、長く武家政治の規範となったのである。
12) 院政
院政は平安時代未期にがえ、がするまでのにれた。
政治特点:
a) 鎌倉幕府の成立後は二重政権の様相を呈したが、後烏羽上皇の倒幕計画が失敗した(承久の乱)ことによって、公家勢カは完全に失墜し、院政の役割にも終止符がたれ、二重政権は滅した。
b) 摂関政治の全盛とともに律令政治は混乱し、政治·社会は動揺していったとき、各地に成長した豪族や荘官などの有力農民は、荘園お他の豪族や受領から守るために武装し、闘争を繰り返しては勢カを拡大していった。武士が現れた。平氏と源氏が有力であった。
13) 《新古今和歌集》
14) 说话集
15) 《徒然草》
16) 大和绘
九、 室町文化(1333~1603年)
1) 不征之国
2) 勘和贸易
3) 南蛮文化
【安土桃山文化の特徴】
16世紀後半、織田・豊臣政権を中心とした前後半世紀の文化概念。安土とは織田政権の中心、桃山は豊臣政権の桃山城中心の桃山建築文化とかかわって使用された。
【人間中心・現世主義】古代・中世文化が宗教文化的色彩が強いのに対し、この時代の文化は、宗教からの現世の解放、人間中心の文化と考えられる。現世主義的なことは、小歌・集団的舞踊などの傾向がみられる。この時代の舞踊全体が、念仏踊りの宗教性を脱却し、官能的な舞踊や女歌舞伎踊りが多い。
【城郭建築・巨大な障壁画】この時代は現世の権勢の象徴として、大量な天守閣を中心とした城堡国がつくられている。
【わびを志向する文化】、簡易で無一物の美、わび(佗び)を志向する茶の湯が流行している。東山時代に始まった茶道は、戦国時代以来、大名や豪商たちに喜ばれていた。堺の町人干利休や津田宗久・山上宗二は茶人として知られていた。
【南蛮文化】スペイン・ポルトガルから文化が入ってきた。これを南蛮文化という。当初は、イエズス会宣教師に信長も秀吉も好意的であったが、領土的野心があることを知り禁教令に踏み切った。しかし、経済と文化対流に関心を寄せたので、活字印刷術の輸入や、多くの南蛮渡来の書籍(キリシタン版)が入って来ている。これを通じて世界的視圏を確立することもでき、南蛮文化・南蛮宗俗などが流行している。
4) 室町文化概念
室町文化(むろまちぶんか)とは足利氏によって京都に室町幕府が開かれた時代の日本の文化。南北朝文化ののち、3代将軍足利義満の時代に北山文化が栄え、ついで8代将軍足利義政の事大に東山文化として成熟した。戦国時代にはさらに文化の民衆化と地方普及が進んだ。広義には、南北朝文化を含むことがある。
(室町時代は武家が公家を圧倒し、文化的にも大きく成長をとげていった時代である。足利氏を中心に有力守護をはじめとする上層武士が京都に多く居住し、伝統的な公家文化とさかんに接触し、また海外との交易によって禅宗をはじめとする大陸文化が伝えられると、武家はその影響を受けながらも、みずからの力強さ、簡潔さと公家文化の伝統美を融合させ、新しい武家文化を開化させた。
いっぽう、庶民の社会的地位が高まり、商工業の発展にともなって町衆や農民が文化の担い手として登場したことから、文化の面でも幅広い交流がすすみ、庶民性や地方的特色がいっそう強まった。庶民文芸の発展や鎌倉新仏教の地方への広まりなどはその現れである。猿楽・狂言・連歌などは都市・農村問わず愛好され、喫茶の風習も茶の湯として広がった。
室町文化の流れには、2つの頂点がある。14世紀末に興起した北山文化と15世紀末に興った東山文化がそれであり、武家が政治・経済のみならず文化の面でも時代を代表する存在となったことを示している。その流れは16世紀の戦国時代に広く地方へと普及していき、やがて国民文化として発展していくこととなった。)
A. 初等教科書の成立
B. 寺子屋の登場
C. 足利学校
北山文化
室町時代前期の文化をさす。伝統的公家文化と新興の武家文化、これに禅宗文化が融合し、学問・文学では五山文化が主流を占め、水墨画が発達、建築でも禅宗様(唐様建築)が流布した。また猿楽能は芸術的に大成。
東山文化
室町時代中期の文化。伝統的な公家文化と武家文化、禅宗思想を基調とした宋文化、庶民文化などが融合した文化が形成された、水墨画、大和絵、連歌、その後の日文化の源流となった。
1) 応仁・文明の乱
15世紀後の内乱。応仁1年に起こり、一応の决着をみた文明9年まで続いた。応仁の乱ともいう。この乱により幕府権力は失墜、荘園制は崩壞、在地武士勢力が台頭。戦国大名の領国化が進展した。
5) 《新续古和歌集》
6) 禅宗
1386年仿宋朝官寺,在京都个镰仓设“五山”之制,还建了僧禄制
7) 侘び茶
侘び茶は室町時代末期に足利義政らの武家貴族の間で流行した書院茶に対し、村田珠光が創始し、千利休が完成したと言われる茶の湯である。千利休は武田紹鴎の弟子である。
侘び茶の特点
利休のわび茶の大成とは具体的にどのようなことであったか。まず第一に茶会の形式と点前を完成させたことであり、第二に茶の湯の場である茶室の様式をきわめた点であり、第三に茶の理念を禅宗に求めた点にある。
8) 懐石
茶事の際に供する料理。一汁三菜に箸洗い、八寸程度が基準。
9) 御加草子
室町時代に製作書写された物語、草子の総称。作者・成立年代は未詳のものが多い。前代の物語・説話・軍記・歌書等から取材し、場面・登場人物も多方面にわたる。読み物であると同時に語るものであり、奈良絵本や絵巻に仕立てられたように見て楽しむものでもあった。
10) 奈良絵本
室町時代後半〜江戸時代前期に、おもに御加草子を題材としてつられた絵入りの冊子本。
婦女童幼の読み物としてもてはやされ、嫁入り本としても用いられた。
11) 連歌
和歌の語句と上下句とに相当する五・七・五の長句と七・七の短句との唱和を基本とする詩歌の形態。
長連歌は第一句を発句、次句を脇(わき)、第三句を第三。
12) 幽玄
静か、かすかで奥深いこと、深遠微妙であることを意味する語。成がこれを自らの歌論の重要概念なとして用いられる。おおむね余情すなをち情調な象徴美であることについて一貫しており、文学理念として長く力をもった。
13) 書院造
室町未~桃山時代に完成した武家住宅の形式で、今日の住宅形式にもなごりをとどめている。寢殿造に比し、非常に復雑な構成をもつ。内部空間は、接客部分、家族の生活部分、台所など使用人の生活部分などに区分される。
14) 能乐与狂言
能(のう)は、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本の舞台芸術の一種である。「能楽」の一分野であり、江戸時代以前には猿楽の能と呼ばれていたものである。
狂言(きょうげん)は、能と同様に猿楽から発展した伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇。(明治時代以降は、能・式三番と併せて能楽と呼ぶことがある。)
能与狂言の区別
能が、主に古典的な題材を取り上げて、幽玄美を第一とする歌舞劇であるのに対して、狂言は日常的なできごとを、笑いを通して表現する口語のせりふ劇である点、対照的な性格を持っている。
夢幻能
あの世の人間や、神、鬼、精などの化身として現れ、中入り後本体を示して活躍する能の形。
十、 江户文化(1603~1868年)
1) 朱印章
朱印船
近世の日本政府かれらは貿易をみずからの統制下におくとともに、海賊船と区別するために外来商船に、渡航証明書を交した。証明書には朱の印章をおしてあるので、渡航許可をうけた船
のことを朱印船とよんだ。
2) 锁国令
3) 外国志略
4) 蘭学
江戸中期以降、おらんだ(和蘭)語によって西洋の学術を研究しようとした学問。医学から数学・兵学・天文学・化学などの学術にまで及んた。
5) 儒学
儒学は、貴族や僧侶といった特殊な身句の世界から解放されて、広く社会に普及することとなったが、それとともに、これを単に外来の知識として学ぶばかりではなく、いわば生きた学問として、現実の政治や社会生活の上に活用しようとする傾向が著しくなった。近世の儒学、の特色は、社会的普及と、現実生活との結びつきとにあった、とみることができる。
江戸時代の儒学は主に藤原惺窩と林羅山によって新しい局が切り開かれたといってよい。
朱熹は、宋学の大成者で、北宋の新儒学の正統を受け継ぎ、「四書」を尊重し、理を窮め知を致すことを目指す実践道徳を教えた。
6) 王仁
ワニを代表としての学者たちは日本に行って、文字教育や儒教が基礎とされる学問教育を実行した。
百済から日本に行った人で、漢の高祖の裔で、応神天皇の時に「論語」10巻、「千字文」1巻を持っていったという。
7) 国学の展開
国学とは日本の近世中期から後期にかけて発達した古典文学や古典文化を研究する学問である。
人物:契冲、荷田春満
8) 歴史学
歴史学の方面では、幕府や藩の公的な事業として行われた、歴史の法則的認識や実証的研究の面でも進歩がみられた。この側面を代表するのは新井白石である。
9) 大学頭
令制下では大学寮の長官である。江戸時代には昌平黌の長官。
10) 本居宣長
江戸中期の国学者。国学四大人の一。古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきと説き。
11) 契冲
江戸時代の真言宗僧、国学者、歌人。内外の諸書を渉猟、国学基礎の築をいた。古典注釈、国語学の方面に業績が多い、主著は「万葉代匠記」、「和字正濫鈔」など。
a) 「万葉代匠記」
「万葉集」の注釈書。契冲の著。「万葉集」全巻にわたって精密な考証注釈を加えたもので、創見に富み、「万葉集」研究の基礎を確立し、広く古典文学研究に大きな影響を与えた。
b) 「和字正濫鈔」
契冲著の仮名遣い著研究書。歴史的仮名遣いの基礎となった。
12) 翁問答
中江藤樹の著。朱子学的思想を濃厚に示している。
13) 知行合一
中国明の王陽明が提倡した知識と行為に関
する根本命題。「知」はすべて「行」を通して成立する。
14) 金沢文庫
1275年ころ、金沢実時がその領地金沢郷の居館敷地内に設けた文庫。和漢の書を集め、その蔵書数はわからないが、相当の量であったと推測されている。
15) 関ケ原の戦
1600年豊臣秀吉の死後の霸権をかけて徳川家康と石田三成が美濃関ケ原の戦った合戦。徳川政権成立への道がひらかれた。
16) 近代文学の成立
狂躁的な芸能に共嗚し、伝統的な文化に回帰しようとした。
中でも、井田西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門の三人は、すぐれた作品を著して、近代文学の世界を切り開き、文化史の上に重要な足跡を残した。
松尾芭蕉は、談林派の俳諧師として活動した。隠者的な生活をし、旅中で、俳諧の美とその表現を究め、蕉風俳諧を興した。俳諧は、後に「俳諧七部集」にまとめられ、「奥の細道」などの紀行文、がある。
下級町人の悲劇を扱い、舞台芸能に高度な伝術的緊張を付与する。
要するに新しい現実を当時の人々は「俗」という言葉で表し、新しい現実の中でのモラル、あるいは良心的な生き方を求めようとした。そういう人生に対する誠実な態度が、この時代の人々に共通し、それにより人間味のある、すぐれた文化が生まれたところに、元禄文化の大きな特色があったと考えられるのである。
人物:
井田西鶴
俳人、浮世草子作者。「好色一代男」を刊、浮世草子を創始した。活気あふれる町人の経済生活や遊里での享楽生活を、あるいは武家社会の意気地と義理の生活を描いている。「日本永代蔵」「世間胸算用」
松尾芭蕉
俳人、旅で俳風を樹立、「おくの細道」にまとめられ、「奥の細道」旅中の体験とをとおして蕉風俳諧は展開し。
近松門左衛門
江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者。伝術観は虚実皮膜(非虚非实)「會根崎心中」「国性爺合戦」(郑成功)
浮世草子
西鶴の「好色一代男」以後、大坂、京都を中心に行われた現実主義的・娯楽的な町人文学をさす。
蕉風
俳諧においては貞門が談林派の異風に対して連歌体に近い自派の俳風をこのことはで示した。私意私情を去って自然と一体になることを目ざしたもので、根本理念として、「さび」、「しをし」、「ほそみ」等をもつ。
洒落本
江戸時代の小説の一種。遊里を舞台に、遊里中心をに生まれた美意識の一理想である「通」を、会話中心の文体でおもしろおかしく描く。
滑稽本
滑稽な話を記した本。江戸后期の小説の一種で、洒落本
の影響の下に、多くは庶民の日常生活における滑稽ぶりを断片。
17) 西欧思想の摂取と近代精神
文明開化の運動は、その性質上、政府の教化政策・対外策、また思想運動・出版事業・世態風俗などの諸方面に現れてくる。「西洋事情外篇」
19世紀イギリス・アメリカ系の工利主義思想、市民的自由・人権思想、合理主義的実証主義思想が、主としては、これらの思想的源流をなしたのである。「学問のすすめ」「文明論之概略」
18) 鎖国
江戸幕府のがキリスト教禁圧を名目として行った外交通貿昜の極端な制限政策。またその結果起こった国際的に孤立した状態。ギリスト教の伝道・信仰を禁止し、ス
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