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西安旅游名迹日语导游词.doc

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西安碑林博物館 西安碑林博物館は西安の南城門の東にある三学街にあります。碑林とは石碑が林のように立ち並んでいることから、名づけられたそうです。西安碑林博物館は唐には太学でしたが、宋の時代に西安の孔子廟として建てられました。1950年に陝西省歴史博物館として増築されましたが、新しい陝西歴史博物館の開設とともに、出土文物がそちらへ移されたために、現在、ここは完全に石碑の博物館となりました。碑林博物館は敷き面積が三万平方メートルあまりで、陳列内容が西安碑林と石刻芸術の二つの部分に分けられています。展示されている作品は三千点もあるそうです。中国の伝統的な習慣によれば、門は南向きであるはずなのに、この門はどうして東向きとなっているのか、皆さんはたぶん不思議に思われるかもしれません。それは孔子廟だからなのです。ここだけではなく、すべての孔子廟の門は東西にあります。これは「礼門儀路」と言われ、「礼儀の門」と言う意味だそうです。 東の門を入ると、まず目に入ってくるのは日本の鳥居みたいな建物です。これは中国では「牌楼」と言われるもので、徳望のある人の功績を称えるために造ったものです。最初の門を入ると、東西両側には展示室が続いています。前は真ん中の小道の両側には馬を繋ぐ用の石柱が28個ありました。ここは昔は今の駐車所みたいなところだそうです。 もっと奥のほうへ行きますと、もう一つの門があります。そのもんを入ると、両側にはそれぞれひとつの亭があります。東の亭には大きな鐘が置かれ、唐の景雲年間に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。景雲鐘は重さが6トン、鐘の銘は18行、292字、内容も道教の神秘さを称えたもので、唐の睿宗の真筆、文章も睿宗のです。中央ラジオ放送局から放送される「除夜の鐘」はこの景雲鐘の録音だそうです。西の亭にはある石馬は424年に造られた夏の時代のものです。夏は21年しか続かなかったので、この石馬はきわめて珍しいものです。もうちょっと前のほうへ行きますと、碑林のシンボルとなっている石碑が見えます。それは皆さんによく知られている石台孝経です。この石碑は高さ、5.7メートル、四つの石から成り立っていて、碑林博物館の中では一番大きな石碑だと言われています。「孝経」は孔子の弟子の曾参と言う人が書かれた親孝行についての本です。唐の玄宗皇帝が孝経を注釈し、序を寄せ、隷書で書いたもので、自ら「孝」と言う思想で国を治めたいということを表しています。碑額の題字は皇太子・李享の書だそうです。 これから石碑の展示室をご案内します。あわせて七つもありますが、それぞれ大きさも内容も違っています。展示の石碑は漢の時代から清の時代までの各時代の代表作が揃っています。石碑には歴史実録や、仏教、古代の名作などが刻まれています。 第1陳列室には、「開成石経」が収められています。それは唐の文宗の開成2年に長安城の国子監、つまり皇族、貴族の子弟の教育機関・太学に立てられました。これは、封建社会の知識人の必ず読書・学の経典12経の全文65万252字を114の石碑の両面に彫ったもので、清代に「孟子」3万余字が17面に彫り加えられ、あわせて13経68万字余となりました。学の経典には「周易」「尚書」「詩経」「周礼」「儀礼」「礼記」「春秋左氏伝」「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」「論語」「孝経」「爾雅」など12経が含まれています。「開成石経」わが国における唯一完全保存されている石刻経典です。 第2陳列室に展示されているのは唐代の有名な書道家が書いた石碑です。後世の書法の手本となったものばかりです。初唐の欧陽 が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。 第3陳列室には歴代の各種の書体があります。篆書、隷書、楷書、行書、草書の五つの書体が含まれています。これらの石碑を通じて、中国文字の変遷が分かっていただけます。「偏旁部首字源表」は『説文』の中の部首で、偏旁540が篆書で書かれ、楷書で注釈をついています。宋の時代の夢英という和尚の書です。また、「千金文」「大観聖作之碑」などが保存されています。第4陳列室には、主に歴史を記録している有名な石碑が展示されています。これらの石碑は明・清時代の苦しい生活と陝西省の人民が奮起し抵抗した反抗の歴史を表しています。第5陳列室には宋、元、明、清の各時代の寺院の改修記録、功労の記録、橋や城壁改修の記録や詩文など、当時の地方史研究における貴重な資料があります。第6陳列室には、元明清の各時代の詩文の石碑があります。第7陳列室は、1982年建てられたもので、「宋淳化秘閣帖」を専門に保存しています。全部で10巻ですが、前の5巻は歴代帝王と名臣、有名な書家の楷書、草書、と古書各体で、後の五巻は王羲之と王献之の草書です。 石刻陳列館は1963年に建てられたもので、先生省各地に散在していた前漢時代から唐代までの作品70点余を集め、墓石と宗教石刻に大別し、年代順に並べました。陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが集められています。漢、唐の石刻は質量とも抜群で、中国彫刻史上飛びぬけて高い地位に立っています。中国における石刻芸術の起源を示す貴重な資料となります。 簡単ですが、以上は碑林博物館にいての説明です。ご静聴,どうもありがとうございました。 大雁塔   大雁塔は西安の南の郊外にある「大慈恩寺」の境内にあります。「大慈恩寺」は648年に唐の高宗・李冶がその亡くなった母親の冥福を祈り、慈恩を報いるために建立したお寺です。当時の「大慈恩寺」は僧侶部屋が千八百九十七室で、僧侶三百人が住んでいたが、唐代の末期の戦火のために焼き払われてしまったので、今大きさはそのときの十分の一に過ぎません。現在の境内のある建物は大雁塔だけが唐のもので、後はほとんど明や清の時代の造りなおしたものです。 さて大雁塔が建てられた由縁は何でしょうか。皆さん中国の古典名作の「西遊記」をお読みになったと思いますが、その中の主人公の玄奘三蔵法師ははるばるインドへから持ち帰った経典をここで翻訳したのです。大雁塔はその貴重な経典を保存するために当時このお寺の住職さんだった玄奘三蔵法師の提案と皇帝の援助によって652年に境内の西院に建てたものです。「大慈恩寺」の中にあるので、「大慈恩塔」とも呼ばれています。皆さんご存知のように「大雁塔」の本名は「慈恩寺塔」ですが、なぜ今の「大雁塔」という名前に変わったのですか。それについては二つの言い方があります。その一ですが、『慈恩寺三蔵法師伝・巻三』にマガダ国に寺があり、ある日、雁が群れを成して、空中を飛びすぎたが、突然その中の一羽が地に落ちて死んだ。僧侶たちはこれに驚き、それを菩薩だと思い、衆議の末、雁を埋め塔を建てようと決めたと記されています。このことからこの塔を大雁塔と呼ぶようになったと伝えられています。もう一つの言い伝えですが、仏教には大乗教と小乗教がありますが、大乗教は肉を食べてはいけないことですが、小乗教は食べても構わないことになっているそです。そのころのインドで、ある日小乗教の僧侶たちが肉の無いことに悩んでいる時、、誰か一人が“今日はお釈迦様が貧しい人に施しをする日だ”と思い出した。そこで、皆で「お釈迦様、お助けください。」と唱えました。そのとたん、一羽の雁が彼らの目前に落ちてきました。これを見て、僧侶たちはびっくりして、まさか彼らの食欲を満たすためにお釈迦様が自分の身を捨てて、雁に変身されたではないかと悟りました。お釈迦様が私たちのために自分の身も捨てましたが、私たちもお釈迦様のために何かしないといけないと思って大乗教を信じ、肉を食べないことにしました。そして、その雁の落ちたところに、「雁塔」を建て、お釈迦様の慈悲の心を後代に伝えようということです。以上はいずれも美しい伝説ですが、資料によりますと、唐のこの大雁塔が玄奘三蔵法師がインドの雁塔に基づいて設計したものなので、「雁塔」と名づけられたそうです。その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられましたが、これは小さかったので、「小雁塔」と呼ばれ、「大慈恩寺」の「雁塔」を「大雁塔」と呼ばれるようになったのです。 先ほど申しました玄奘三蔵法師が日本人の中でも馴染み深いの高僧ですが、彼は629年に27歳のとき、皇帝の許可ももらわずに一人で長安を立ち西へのたびを始めました。シルクロードを通って、西域百二十カ国を歴訪し、インドでの遊学を終えて、16年後の657年に彼は115粒の仏舎利、八体の仏像と657部の経典とともに長安に帰り着き、持ち帰った経典はこの寺で十二年間にかけて翻訳されました。唐代は仏教のとても盛んな時代でしたから、仏教に力を尽くした玄奘法師も非常に人望がありました。彼の功績を称えるために、唐の高宗と太宗はそれぞれ絶賛と感謝の意を込めた文章を書かれました。この文章は唐の有名な書道家・ちょ遂良によって石碑に刻まれ、今も大雁塔の上に保存されています。彼が著した『大唐西域記』は後世の人々に西域諸国研究、特にヨーロッパの考古学調査 研究に対して、欠かせない貴重な資料となっているものです。いわば、『世界考古案内・天竺篇』と言ったところでしょう。前にご案内したように大慈恩寺の中の建物は大雁塔を除いて、大体は明清のものです。中の鐘楼と鼓楼はお寺に住んでいる僧侶たちに時刻を知らせるために造られたものです。お寺には二つの建物がありますが、一つは「大雄宝殿」と呼ばれ、その中にはお釈迦様の三身佛が祭られております。もう一つは法堂という建物で、その中には阿弥陀仏の像が祭られています。特に法堂の東の壁には玄奘三蔵法師が昼も夜も休まずに歩き続けてインドから帰国するときの拓本が掛けてあります。この拓本を見たら玄奘が一生懸命仏教にしたありさまを偲んでいただけると思います。法堂を通って、大雁塔の真下に着きます。史書によりますと、大雁塔は最初に煉瓦で外側を固められた五重の正方形の建物でしたが、則天武后の長安年間に大改造を行ったので、十層になりました。しかし、その後の戦乱などで七層から上が崩壊し、残った七層をレンガで表を固めて修復し手、今の姿になったのです。現在の塔は高さが64メートルで、中には螺旋状の階段が付いており、一番上まで登って頂いたら、西安のきれいな町風景が見られます。大雁塔にはすでに千三百年の歴史があり、その間震度七級以上の地震に二度見舞われていますが、無我氏の雄姿をそのままに見せています。 大雁塔と同じ毎日数多くの国内外の観光客を迎え、その大唐の雄姿を見せています。               華清池 華清池は西安の東にある驪山の麓にある観光地です。ここは都にも近いし、温泉も沸いているから昔から皇族たちの行楽地として栄えてきたのです。 ここで、温泉に入ったりして行楽を始めたのが今から3000年ほど前の西の周――西周時代の国王・周幽王でした。しかし、当時はまだ宮殿などの建物がなく、お風呂も「露天」の状態で、星が見えていたので、「星辰湯」と呼ばれていました。これが華清地の初めての名称でした。 唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛情物語は誰でも知っているでしょう。そのラブストーリの舞台はここ華清池でした。 華清池は西、中、東の三つの部分からなっています。九つの龍の池――九龍池を中心とした西の部分は20世紀の50年代に再建されたのです。  九龍池は面積5300㎡で、九龍という堤防に分けられ、上下二つの部分になっています。一つの大きいな龍と八つの小さいな龍の頭が造られ、水が龍の口から池へと流れ込んでいます。これが、九龍池の名称の由縁でもあります。 九龍池の北には、「飛霜殿」を中心とした建築群があります。それは玄宗皇帝と楊貴妃の寝殿――と言われています。両側にあるのは「沈香殿」、「宜春殿」です。  1982年4月、ここで建築工事を始めたところ、華清宮御湯遺跡が発見されたのです。後の考古学発掘では、4200㎡に及ぶ範囲内において、星辰湯、蓮花湯、海棠湯、太子湯、それに尚食湯という五つの温泉風呂があったことが判明しました。1990年10月に「華清宮御湯遺跡博物館」がオープンしました。  蓮花湯は皇帝専用で、蓮の花の形をしています。  海棠湯は楊貴妃の専用のものだから、貴妃池ともいいます。また満開した海棠の花のような形もしているから、どこからとなく女性らしさが漂っています。 太子湯は文字通り太子が入浴する場所で、尚食湯は大臣など皇族以外の人が使うお風呂です。星辰湯はいわば露天風呂のことであるが、唐の時代から使い始めたものではありません。  現在、温泉の泉は四つあり、一時間あたり112トンのお湯が湧き出ています。 昔からここの温泉が皮膚病やリュウマチには治療効果があることに気づき、利用してきました。  望湖楼の北側には蓮池があります。池の中に造られている高殿も「蓮花閣」と呼ばれてきました。「蓮花閣」の南西にある建物は「飛霜殿」です。また、楊貴妃が温泉からあがるたびにここで髪の毛を乾かしていたと伝えられきました。 秦の始皇帝陵 秦の始皇帝陵は、西安市の東に臨潼という町から東へ5キロ行った所に位置しています。 2200年ほど前に造られた秦の始皇帝陵は長年風雨にさらされ、地上の建築などほとんどなくなってしまったが、関中平野を見下ろすその威容はいまだに始皇帝の栄光と威厳を物語っています。秦の始皇帝陵は中国史上初めての皇帝の陵であり、世界おいても最大級のものです。また、これに埋められている珍しい文物はいったいどれほどあるかは計り知れなくて、いまだに未知数のままです。 秦の始皇帝陵を見学するに当たって、まず秦の始皇帝はどういう人物かを知っておく必要があるでしょう。 秦の始皇帝姓は名は嬴政で、紀元前259年に生まれ、13歳で国王になりました。しかし、10年後22歳で自ら政務を執り始めたのです。実権を手にした秦の始皇帝は改革を断行することによって、国力を急速に強め、10年というわりと短い期間で、他の六つの国を滅ぼして中国全土統一という快挙を成し遂げ、自ら始ての皇帝――始皇帝と称しました。紀元前210年7月、地方視察の途中で倒れてしまい、50歳で亡くなりました。 秦の始皇帝は傲慢で、決断力があり、権力闘争に長じていると同時に非常に冷酷的で残忍でした。一方、秦の始皇帝が歴史上最も勤勉な皇帝の一人です。秦の始皇帝に対する評価は昔から分かれており、今でも論争の対象となっています。しかし、これだけは弁論の余地のない事実でしょう。彼は中国歴史の進行に極めて重大な影響を与えた人物であり、2000年も続いていた中央集権政治の創始者で、史上始めての皇帝です。  秦の始皇帝陵の平面図はほぼ正方形しています。底辺の長さは、南北350m、東西は345mです。もちろん、この数字は現存の陵墓のものであるから、当初はもっと大きかったにちがいません。   秦の始皇帝陵は、実は敷地面積が200万㎡を超えた巨大な霊園でした。漢字の回数の「回」という形をしている二重の城壁がありました。城壁の東西南北にはそれぞれ城門が一つずつ、四つの曲がり角には「角楼」という建物が造られていました。当時天下無敵の秦の軍隊がこの城壁で物々しく警備していたでしょう。  内側の城壁に囲まれていた部分は内のお城――「内城」といいます。内城の中心は言うまでもなくし皇帝の陵墓です。秦の始皇帝は、狭い寝殿が天下始ての皇帝という身分にはふさわしくないと思ったでしょう。  内側の北側では寝殿遺跡のほか、「便殿」という格式のランクが一つ低い宮殿の遺跡も発見されています。  では、秦の始皇帝がなぜ国を挙げて陵墓を造ったのでしょうか。それは昔中国では、「死ぬ」とはもう一つの世界に旅たつことであり、「死んだ後」でもあの世で暮らしをすることができると考えられていました。秦の始皇帝陵はあの世における秦の都であるといえるかもしれません。 兵馬俑  兵馬俑は秦の始皇帝陵から東へ1.5キロのところにあり、1987年、ユネスコによって世界文化遺産に指定されたのです。皆様のご存知のように、兵馬俑は秦の始皇帝が自分の陵墓の東に造った大規模な「軍隊」です。それを造った目的は何だったでしょう。「死後の世界」を固く信じていた秦の始皇帝は自分の陵墓を「地下の都」のように造り、あの世でも皇帝をやり続けたいと思っていました。 兵馬俑を保存して、展示するため、遺跡の発見された現場に「秦の始皇帝陵兵馬俑博物館」が造られています。これは中国における最大級の遺跡博物館であり、一号館、二号館、三号館と言う三つの遺跡現場展示室と、出土文物展示室や秦の始皇帝陵銅車馬展示室など、五つの部分からなっています。 秦の兵馬俑の発見は偶然とも言えるでしょう。1974年、西安一帯は激しい日照りになりました。干害に悩まされていた地元の農民たちが井戸を掘りました。工事を始めた農民が3Mほどの深さまで、掘ったときに、まず焼かれた土がそれから炭や灰が次から次へと出てきました。ちょっと不思議に思った彼らは昔の煉瓦を作る窯元に出会ったと思い、井戸を掘り続けていました。ところが、5mの深さまで行くと、今度は西側の壁から人間の顔をしている埴輪の破片が現れてきました。時は1974年3月29日のことでした。秦の兵馬俑がこのようにして見つかったのです。この大発見を記念するため、一号館には農民たちが掘った井戸も遺跡として保存されています。パッチファイルセット  さいきん 秦の始皇帝陵については「史記」や「漢書かんしょ」などの史書ししょがその記録を残しているが秦の兵馬俑については何の記録もありません。そのため、兵馬俑坑の正確な建造年代がわからないです。しかし、兵馬俑坑から出ている煉瓦から手がかりをつかむことができるでしょう。兵馬俑坑の地面が大量の煉瓦によって舗装されています。これらの煉瓦の製造元はいずれも秦の始皇帝が中国統一した後の宮廷専属の窯元ですから、兵馬俑坑の工事が中国統一してからのことであると考えられます。もし、兵馬俑坑の工事が中国統一したの紀元前221年から始まって、農民蜂起が全国に広まった年の紀元前209年に終わったとすると、およそ10年間続いていたことになります。 兵馬俑坑は発見された順序に一号坑、二号坑、三号坑と名づけました。今、皆様がご覧になっているのは一号坑です。 一号館は秦の始皇帝兵馬俑博物館最初の建物で、1979年10月1日の国慶節に博物館は正式に開館しました。東西210m、南北62mの長方形をしているもので、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きい遺跡です。地面から4.5m~6.5mの深さに1000あまりの兵隊の埴輪が立っています。戦闘馬車8台と馬の埴輪32体も出土しています。九つの行列になっています。現在、ここの発掘はまだ継続中なので、埴輪の数が正確には分からないが、今までの調査結果から推定すると、たぶん6千体くらいあるだろうと思われます。線を引くかれる 一号館の兵馬俑は、歩兵ほへいを中心とした主力部隊です。その役割から見ると、先頭部隊や主力部隊、それから側面部隊や後衛部隊に分けられます。戦闘部隊は文字通り一番先のほうにあります。秦の兵馬俑は当時の軍隊をモデルにして造られたものだから、軍の階級なども埴輪はにわからはっきり判断できます。階級の一番低い兵士は、髪の毛を高く束ねて、短い戦闘服を着、鎧よろい(铠甲)を着けず、ゲートルを巻いています(扎裹腿)。これより階級ちょっと高い兵士は、髪の毛を高く束ねたばね、小さい丸い帽子をかぶり、長い戦闘服を着て、黒の長い鎧をつけています。最も目立つのは何いっても将軍俑です。将軍は、先端が巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためのリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よく垂らされています。また、鎧も独特な形をして両肩と胸のところでリボンによって結ばれています。 次に、入るのは二号館です。二号館の兵馬俑はの遺跡はアルファベットの「w」の形をしており、東西最も広い所の幅は96mで、南北は84mです。四つのブロックに分けられています。弓を持っている努兵、戦闘馬車、歩兵、騎兵からなっています。この陣立ての形は攻めることも守ることも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい場所がありません。二号館の建物は秦の始皇帝兵馬俑博物館における最も近代的な建物で、1994年竣工し、オープンしたのです。 1987にオープンした三号館で展示されている兵馬俑は1976年に発見されたものです。三つの兵馬俑坑の中で、唯一発掘が完成したのが三号館のほうです。三号館の兵馬俑坑が東西が17.6m、南北が21.4mで、規模としても一番小さいほうです。 ここからは馬車1台、馬の埴輪4体、武士の埴輪68体、それに34点の青銅製兵器が出土されています。専門家たちは三号館の遺跡は宿衛軍全体の統帥する司令部であると推定しています。一号館、二号館の兵馬俑坑はみな激しく焼かれた痕跡あります。これは項羽が咸陽に入って阿房宮とともに焼いたのではないかと推測されています。しかし、不思議なのはこれと違って三号館の兵馬俑坑が焼かれた痕跡はまったくありません。そのおかげで、ここの兵馬俑が出土されたとき、皆鮮やかな色彩が着いたままでした。残念なのはこれらの色を保存する技術が無く埴輪が出土してから三日ほど経つと、水分が蒸発して色が全部落ちてしまったのです。   1980年12月、秦の始皇帝をさらに掘り進めて見ると、陵の西側20mのところから、副葬の銅製の馬車が二台発見されました。大きさは実物の二分の一です。始皇帝は皇帝になってから5回全国を巡視したが、その時使用した乗り物はこのような銅車馬であったことだろうと伝えられています。   1号車は先導車で、「高車」と呼ばれます。車体は長方形です。御者は、馬の手綱を手にし、前方を望んで立っています。腰には剣、頭に冠をかぶっています。車の中には鏃、弓、盾などがあります。ここに装備されるものから、この1号車は2号車の安全を守る護衛の車だということが分かります。車体には傘がついており、鍵で開いたり、閉じたりできます。二号車は「安車」と呼ばれ、壁によって、前の御車席と後ろの主人席の二つの部分に分けられています。車体には、小さいな窓が三つあり、温度によって開閉する自動式です。扉はハンドルであけるようにしていますので、現在の自動車のドアと同じ仕掛けなのです。銅車馬は大きさが実物の二分の一ですが、実物の車や馬、人物をモデルにして、製作されたものなので、まったく実物の馬車と同じです。馬も御者も生き生きとしています。銅車馬は3400点の部品から組み立てられています。構造が複雑で、細工は精巧を極めています。車体には、金銀のメッキが施され、車体の彩色画も色鮮やかで、上には四角形、雲、龍、鳳凰などが浮き彫りにされています。2号車の屋根の面積は2.3㎡で、青銅で一度鋳造されて最も薄い所で1cmで、厚い所でも4cmです。車馬の装飾に使われている銅線は、直径0.5ミリから1ミリほどしかないです。これで当時の伸線技術がたかったことが                                                          分かるが、いったい、どのようにして太い銅線を細くしたのか、まったくの謎です。銅馬で注目されるのは、金銀の飾り物です。金は747点、銀は847点ありますが、特に、金銀だんだらの管の環は、どのようにして溶接されたものか、想像がつきません。金銀は溶解点が異なるので、当時の溶接、冶金技術の高度さが注目されるわけです。銅車馬は中国における最も大きな青銅器としてますます世界に広く知られるようになっていくでしょう。 陝西歴史博物館 皆様、今日見学のは陝西歴史博物館です。陝西歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立歴史博物館です。皆様のご存知のように、陝西省は都として1100年の歴史があり、また、周、秦、漢、唐のような繁栄していた時代でした。ですから、陝西の歴史はある程度中国の歴史を演じています。 館内に入って、まず目につくのは、大きな石の獅子ですが、これは則天武后の母親の墓・順陵の獅子の模造品です。 第1展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始っています。藍田猿人は西安市東南の藍田県から出土しました。西安市東郊外の半坂村から発見された半坂遺跡は、仰韶文化の村落遺跡です。約6000年くらい前のものと推定されています。その集落が居住区、製陶区、埋葬区などに分かれていることです。彼ら、は農耕作業をし、家畜を養い、魚を釣り、弓矢で獣を捉えるなど、生産のための道具を駆使しています。陶器は、彩りの鮮やかな彩色陶器です。半坂人は、母系会社です。獣の骨で、こしらえたネックレス、そして、ブレスレット。また、人面魚紋を始とする美しい陶器の模様。 今から約5000年ほど前の龍山文化は、新石器時代の晩期に当たり、父系社会の始まりでした。この時代において、男性は女性に代わって社会の中心となり、支配地位を占めるようになりました。 ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。 周の時代は、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」とされています。青銅器は、銅や錫との合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになりました。博物館に展示されている青銅器は祭礼の楽器、生産、生活用具、実戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。陝西省から出土した青銅器は全部で3000点あまりで、そのうちの2000点あまりがこの博物館に保存されています。青銅器のほかに、鉄製農具の使用によって農業生産力が増大し商工業が発達したこともこの時代の特徴なのです。 この展示室では、秦の足跡を展示しています。春秋戦国時代の秦の都は、雍(現在の風翔県の南)でした。秦は、戦国時代末期(前221年)6国を制覇して、中国最初の封建統一国家です。時の秦王・嬴政は自ら始皇帝と号し、郡県制、通貨統一、度量衡統一、文字統一、法令統一を始、車の轍まで統一すると言う、徹底した法治主義を貫き、思想言論にも、弾圧を加えました。 展示品の中には、雍城の遺跡や咸陽の宮殿遺跡から発掘した瓦、煉瓦などの建築材料をはじめ、鉄や青銅の生産用具、武器などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幤関係の資料も展示されています。 秦が滅亡してから、西暦前202年、漢王朝の時代となりました。漢代の都・長安城は中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国の都・古ローマより2倍ぐらい広かったと言われます。ここに展示されている陶製の水道管は、漢の長安城遺跡からの出土品で、現在我々が使っている水道管とよく似ています。そこから、当時の長安城はすでに立派な排水システムを用いたことが分かります。紙の発明はかなり古く、西安・灞橋の漢墓などからも、植物織維で造った紙が発見されていますが、さらに、良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。漢の第7代皇帝・武帝の時に開かれたシルクロードは、東西文化交流のかけ橋としてよく知られています。シルクロードを通じて中国から、絹、漆器、鉄器の作り方や井戸の掘り方などが西方に伝えられ、西域、中央アジアからは、ザクロ、ブドウ、胡桃、蚕豆、香料、宝石などが大量に入ってきました。 西暦220年から581年にかけてのこの時期は、強力な中央政権を欠き、王朝の交替がしきりであって、社会的な混乱に明け暮れた時代でした。220年から280年にかけては三国時代でした。263年、蜀は魏に滅ぼされ、ついで魏と呉は晋に滅ぼされて三国時代は終わりました。戦乱に苦しむ庶民の解脱願望によって、仏教は大幅に広め、大変盛んになり、したがって、陝西省からこの時期の石窟、仏像などが数多く発見されたのです。ここにある仏像はいずれも傑作です。 隋は、589年の成立です。隋は短命で、わずか2代38年で、滅びます。李淵が子の李世民に勧められて挙兵、長安を占領し、618年に唐を建国し、初代皇帝・高祖となりました。唐は引き続いて、長安城を完成しました。日本の古代都市平城京や平安京はもともとこの長安城をモデルとして、造営されたといわれています。しかし、その規模を比較すると、長安城は平城京の約4倍、平安京の約4倍の広があり、都長安は唐の盛時には人口100万、世界最大の都市として繁栄しました。 隋・唐展示室では、金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。特に、1970年に西安南郊外から発見された大量の金銀器具は唐代の絢爛ぶりを示すものです。中でも、五足の銀の透かし彫の薫炉は、実用品でありながら、極めて芸術性の高いものになっています。 法門寺から出土した大量の唐代の宝物も陳列されています。これらの金や銀の細工物は、精巧、華麗で、思わず嘆声が洩れるほどです。唐三彩は、西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列されている馬、駱駝、宮女、各種生活用品など、題材も豊富です。工芸水準も大変高いものです。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。 宋元明清の時代は、政治、経済、文化の中心が東に移りましたが、陝西地方は重要な軍事地区であり、西北地方の政治、軍事、経済、文化の中心でした。 展示品の中では、宋の磁器が注目されます。上薬は青が主で、蓮花の紋様が最も多く、そのほかに、牡丹、鶴、鳳凰、魚、鴨などもあります。 皆様、陝西歴史博物館の解説はこれで、終わりました。ご静聴ありがとうございました。   [此文档可自行编辑修改,如有侵权请告知删除,感谢您的支持,我们会努力把内容做得更好] 最新可编辑word文档
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